龍谷大学交響楽団 サマーコンサート2017

第2回 曲解説 2017年3月開催


プレゼンター:佐藤佑哉(第25代正学生指揮者) 

◎モーツァルト/交響曲第31番

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 次に、モーツァルト「交響曲第31番」について2回目の解説を行います。前回は、なぜ「パリ」がつくのかを説明し、モーツァルトとパリの関係について解説していきましたね。今回はモーツァルトの生涯を中心に解説していきたいと思います。

 

※実際の解説会では前回のおさらいを行っていますが、このサイトでは省略させていただきます。


 1.あなたの抱くパリのイメージは?

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 具体的に解説していく前に、軽く小ネタを挟みます(笑)。今回の曲には前回も言ったように「パリ」が付きます。さて、あなたの抱くフランス・パリのイメージはどんなものですか?

MMF都市戦略研究所が調査した「City Perception Survey 都市のイメージ調査」というサイトがあります。

★参照URL http://mori-m-foundation.or.jp/ius/cps/index.shtml

 

 世界中が抱いているパリのイメージは、サイトのランキングを見てわかるように「文化」や「愛」に関連したキーワードが多いですね。第1位がエッフェル塔なのですが、他の都市と違い、1位にランドマークが挙がったのはパリだけです。それだけエッフェル塔というランドマークがパリの象徴であることがわかります。それをはじめとした景観的な美しさなどから、愛や文化に満ち溢れた、ロマンティックな都市であると私たちはイメージしているそうです。

また、回答者の国を地域別にまとめ、それぞれの地域の特徴を見てみると、私たちアジア人は「ロマンティック」というイメージを強く抱いているみたいですね。

このサイトではパリだけでなく、われらが日本の首都、東京もイメージ調査がされています。気になったら覗いてみてくださいね。


 2.モーツァルトの生涯

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 さて、それでは本題に戻り、モーツァルトの生涯を順に辿っていきたいと思います。まずは幼少期です。

 モーツァルトはオーストリアで生まれたことはみなさんご存知だと思いますが、地名はご存知でしょうか。ザルツブルクという都市です。私はサッカー大好きなので、ザルツブルクは日本人選手が所属していることもあり、個人的には昔からお馴染みの都市なのですが、ウィーンやグラーツと比べればあまり知られていない町だと思います。しかし、このザルツブルクは音楽の都市としても有名ですよ。

スライド上の地図を見てわかるように、ザルツブルクはオーストリア中北部にある都市です。夏には「ザルツブルク音楽祭」が開催されており、この時期ホテルはどこも満室になるそうです。モーツァルトの生家のある通りはもともと狭い通りなのですが、なおさら狭く感じられるほど混雑になるくらい、音楽祭シーズンは賑わう都市なのです。ちなみにスライド右下の写真は、ホーエンザルツブルク城です。

 モーツァルトはこのザルツブルクで7人姉弟の末っ子として生まれました。しかし、他の6人うち5人は幼くして亡くなり、5歳上の姉、マリーア・アンナだけがお姉さんとしていました。

 父は元々哲学や歴史を修めるために大学に行っていましたが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストです。そんな父は、息子が音楽の天才であることを見出して、幼少時から音楽教育を与えていきました。3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行っています。

幼いころから「音楽家」という身分のもと、父と共にザルツブルク大司教の宮廷に仕えていました。また、親子で何度もウィーンやパリ、ロンドン、イタリアへ旅行していたそうです。

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 さて、次は前回軽くやった、マンハイム・パリの時代です。21歳のとき、ザルツブルクでの職を辞したモーツァルトは、ドイツ・ミュンヘン、次いでマンハイムへと渡ります。そのマンハイムで、マンハイム楽派と出会います。マンハイム楽派でモーツァルトは、大規模な編成やクラリネット(当時は新しい楽器だった)の音色やオーケストラでの使い方を学び、それが31番はじめその後の作曲活動に影響を及ぼしました。

 マンハイムの地でモーツァルトは、マンハイムの音楽家であるヴェーバーの娘であるアロイジア(スライド右上の女性)に恋をします。ヴェーバーときてピンときた人もいると思いますが、アロイジアの父は「魔弾の射手」などを手掛けたヴェーバーです。彼女と結婚の計画をたてますが、父に猛然と反対されます。そしてしまいには翌年、パリ行きを命じられたのです。

 そしてパリへ移ったモーツァルトは「交響曲第31番」を作曲しました。6月にパリで行われた初演は大成功します。しかし直後の7月3日、同行していた母(スライド右下の女性)がパリでこの世を去りました。

 前回いったように、モーツァルトにとってパリは、31番が成功をおさめたことくらいしかよかったことがなく、不幸の連続でした。失恋や母の死だけでなく、パリでの受け入れ先であったシャボー公爵夫人からは冷遇され、稼ぎも良くなかったと言われています。また、自邸に招いて演奏させた人々は絶賛こそするものの、報酬は出し惜しみしていたとも…。3月から9月に滞在していたパリはモーツァルトにとって不幸のどん底でした。31番だけ聴けばそんなイメージはもてませんね。

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 1781年からモーツァルトはウィーンに定住します。ウィーン定住後は、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てていました。

その翌年、モーツァルトは父の反対を押し切り、コンスタンチェという女性と結婚します。実は彼女、かつてマンハイムでモーツァルトが恋をしていたアロイジアの妹です。ちなみにコンスタンチェは「世界三大悪妻」の一人と言われている女性です。浪費家で家事もせず、さらには夫の葬儀を怠ったなどと言われています。

1786年、歌劇「フィガロの結婚」を初演します。今回のプログラムでやる、ロッシーニ「セビリアの理髪師」の続編作品ですね。これは初演した翌年にプラハの地で大ヒットをおさめ、それを機にプラハを訪問し、交響曲第38番「プラハ」を発表しています。

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 最後に晩年についてです。晩年は作曲家としてより、ピアニストとして人気がありました。しかし、徐々に収入が減っていき、借金を求める手紙も残されています。モーツァルト自身、品行が悪く、浪費癖に加えて、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因として挙げられていますが、一部ではモーツァルトの天才に怖れをなした宮廷楽長らのイタリアの音楽貴族達が、裏でモーツァルトの演奏会を妨害したために、収入が激減したとする憶説もあります。

 その後1791年に作曲したピアノ協奏曲の初演が自身最後のステージ。35歳の若さで、ウィーンで亡くなりました。スライドの写真はウィーンにあるモーツァルトの像です。