龍谷大学交響楽団 サマーコンサート2017

第2回 曲解説 2017年3月開催


プレゼンター:佐藤佑哉(第25代正学生指揮者) 

◎ブラームス/交響曲第2番

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 それではブラームス「交響曲第2番」の第2回解説をはじめていきます。今回は、前回軽く紹介したペルチャッハについてもう少し詳しく説明をした後、ブラームスの生涯をたどっていきたいと思います。

 

※実際の解説会では前回のおさらいを行っていますが、このサイトでは省略させていただきます。


 1.ペルチャッハについて

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 前回説明したように、ブラームスの2番にはペルチャッハの自然が大きくかかわっています。オーストリアのリゾート地と言われているこの地で、ブラームスは第2番を書いています。そんなペルチャッハについて、前回の補足を中心に解説していきたいと思います。

 ペルチャッハというのは一つの町の名前ですが、町自体はケルンテン州という州に属しています。地図を見てわかるように、ケルンテン州はオーストリア最南部、スロベニアとの国境付近にあります。そのケルンテン州にはヴェルター湖という湖があるのですが、その北側湖畔に位置しているのがペルチャッハです。地図を見てわかるように(というか常識ですが)、オーストリアには海がありません。そんなオーストリア人にとってみれば、ペルチャッハは数少ないオーストリアのリゾート地の一つと言われています。オーストリアといえば涼しいイメージがあると思いますが、京都と同じように夏はむしむしと暑くなります。そのため、ヴェルター湖周辺の町がリゾート地として栄えているそうです。

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 前回解説したとき、ペルチャッハという名前しか言っていなかったため、それは町の名前なのか湖の名前なのか混乱させてしまったようですね。先ほど説明したように、ペルチャッハは、ケルンテン州にある、ヴェルター湖の湖畔にある町の名前です。これでもややこしいかもしれませんが…。

 さて、ヴェルター湖という湖がどれくらいの規模なのかというと、結論からいってしまえばそんなに大きな湖ではありません。周囲約50km、面積も約19km2ほどしかありません。スライドの写真は一部しか写っていないのでわかりづらいですが、全体の形としては細長い形をしています。ちなみに比較対象として我らが琵琶湖、その面積は669km2です(笑)。

 ついでにケルンテン州についても軽く触れておくと、オーストリアにはケルンテン州を含めて合計9つの連邦州があります。ケルンテン州は農業や林業が盛んな地域だそうです。

ちなみにスライドに載せたサッカーのエンブレムのような図は、ケルンテン州の紋章です。これはケルンテン公国時代のものを引き継いでおり、「金(オーア)に三頭の黒い(セーブルの)ライオン、右が赤(ギュールズ)に銀(アージェント)の横帯(フェス)」という意味です。( )書きしてあるカタカナの言葉は、紋章学での色を意味します。即ち、オーアは金、セーブルは黒ということです。


2.ブラームスの生涯

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 それではブラームスの生涯を見てみましょう。前回説明した通り、ブラームスが生まれたのはドイツ・ハンブルクです。ブラームスは幼いころから音楽のレッスンを受けてきましたが、彼に音楽を教えたのは父です。父は、市民劇場のコントラバス奏者だったそうです。

 「神童」と言われるほど、10歳のころからピアノの早熟な才能を示してきましたが、18歳のころ、自己批判によってそれまで作曲してきた作品を破棄し始めたのです。よってこのころまでに書かれた作品は、記録が残っているだけで、譜面そのものはまったく現存していません。

 そんなブラームスに転機が訪れたのは1853年、レメーニというハンガリーのヴァイオリニストと演奏旅行に行った時です。スライド右上が当時の写真、左がレメーニ、右がブラームスです。旅行に行っていた1853年に撮影されたものです。レメーニとの旅行中には、ヨーゼフ・ヨアヒム、リスト、シューマンらに会って自身作品を見てもらっている他、レメーニからジプシー音楽を教わり、これらがブラームスの作曲活動に再び火を点けるきっかけになりました。

ちなみにジプシー音楽というのは、西アジアやヨーロッパで移動型の生活を送っていたロマ民族の特有の音楽のことで、テンポが激しく変化するほか、旋律の装飾、細かいリズムなどを特徴とする音楽です。ロマ音楽とも呼ばれています。

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 その後、39歳のときにブラームスはウィーンに移住します。理由は、ウィーン学友協会の音楽監督に就任するためでした。ウィーン学友協会といえばウィーン・ウィルの本拠地で、通称「黄金のホール」と呼ばれる世界一音響の良いホールですね。毎年正月のニューイヤーコンサートはNHKでライヴ放送されており、日本でも有名です。そんなウィーン学友協会音楽監督時代は、自らの作品はもちろんのこと、ベートーヴェン等の古典派の曲目の他、バロック音楽の研究の成果ともいえるプログラムを演奏していました。

しかし、音楽監督は42歳のときに辞めてしまいました。辞任の理由としては、楽友協会側がブラームスの選曲に不満があったこと、ブラームスも色々と手続き等面倒なことが多かった事があげられています。また、出版者から支払われる報酬も、交響曲は1曲 1万5000マルク(約100万円)のレベルに達しており、出版の報酬だけで十分な生活基盤が得られていたからです。音楽監督という役職につかなくても、フリーの作曲家として十分食っていけると判断したのです。

 そして約20年もの歳月をかけて、交響曲第1番が1876年に完成します。そこからは10年足らずの間に第2番から4番を次々と書き上げました。

 1889年には、あのトーマス・エジソン(スライドの男性)の代理人から依頼され、蓄音機に録音を行います。これが、史上初の録音(レコーディング)と言われています。ちなみにレコーディングした曲は、自身の作曲した「ハンガリー舞曲第1番」と、シュトラウスのポルカ・マズルカ「とんぼ」です。

このときにピアノ演奏をしているのですが、初めて自身の老いを自覚したといわれています。

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 自身に対して老いを感じたブラームスは、作曲に対しても次第に意欲が薄れていき、57歳のときに作曲を断念しようと決心し、遺書を書くなど手稿を整理し始めます。

 それでも、ミュールフェルトというクラリネット奏者の演奏に触発されて、再び作曲に対しての意欲を取り戻すのです。この時にブラームスは、クラリネット三重奏曲や2つのクラリネット・ソナタを書き上げています。

 しかし1897年、ウィーンでこの世を去ります。63歳のときでした。ハンブルクにある生家は長く残っていましたが、1943年7月のハンブルク空襲で焼失。ハンブルクの生家には、現在記念碑がたてられています。